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『グローリー』(''Glory'')は、1989年公開のアメリカ映画。アメリカ南北戦争において実在したアメリカ合衆国初の黒人部隊を描く戦争映画。 この映画で黒人兵士を演じたデンゼル・ワシントンは第62回アカデミー賞および第42回ゴールデングローブ賞の助演男優賞を受賞した。 == ストーリー == 1862年、アンティータムの戦いを生き延びた若き北軍大尉、ロバート・グールド・ショーは、帰郷先のボストンで奴隷解放運動家の父の紹介で、北軍初の正規編成の黒人連隊の隊長就任を依頼され、友人フォーブスと共にそれを受諾する。しかし、黒人部隊の隊長となったショーは、敵である南軍よりも先に、味方であるはずの北軍内での差別や無理解と戦う事になる。 やがて来たる実戦で戦える兵士を育てるためにショーは黒人兵士達に厳しい訓練を施すが、そのあまりの厳しさに副官であり友人のフォーブスとさえ対立することになる。だが、ショーの行動は全て第54連隊を思っての事だった。物資の横流しをしていた補給将校から第54連隊に支給されるはずだった軍靴を取り戻し、「黒人兵であるから」という不当な理由で下げられた給料の受け取りを兵士達と共に拒否したショーは彼らの信頼を勝ち取る。 第54連隊はボストンでマサチューセッツ州知事やフレデリック・ダグラス、そしてボストン市民の前で観閲行進を行い、戦地へと赴く。ところが、戦地で待ち受けていた「戦い」は、彼らの予想する物とは大きく異なっていた。ショーの上司である旅団長モンゴメリー大佐が逃亡奴隷部隊を率いて行っていたのは、戦いとは名ばかりの略奪・破壊行為だったのだ。 それからと言うもの、第54連隊には肉体労働の任務ばかりが回される。部隊の士気は下がり続け、撤退する白人部隊との喧嘩騒ぎまで起こってしまう。事態を打開するため、以前からショーは父やマサチューセッツ州知事に手紙を出し、リンカーン大統領に第54連隊を実戦へ出すよう要請していたが、彼はついに最終手段に出る。モンゴメリー大佐とハーカー将軍によって行われた略奪品の横領や着服を指摘し、第54連隊を前線へ出さなければこれらを陸軍省に報告すると脅しをかけたのだ。 そして、ショーの行動の甲斐あって第54連隊は初の実戦に出る事になる。それはワグナー要塞攻略戦に係るただの小競り合いだったが、確実に勝利を掴み、自信を得た第54連隊の兵士達にとっては大きな意義のある戦いだった。 その数日後、ショーは難攻不落の要塞、攻略の先頭部隊を志願する。ワグナー要塞は大砲十数門に加え守備隊千人を擁する強固な陣地だったが、その侵入路は狭く一度に一個連隊しか通ることが出来ず、先頭部隊が大損害を被るのは必至だった。それでもショーは第54連隊の実力を信じ、またそれを示すため志願したのだった。戦いの前夜、黒人兵達は霊歌に乗せて各々の心情を吐露する。 1863年7月18日。ワグナー要塞へと行進する第54連隊に、以前喧嘩騒ぎを起こした白人兵士が激励の言葉をかける。彼の言葉が呼び声となり、第54連隊は歓呼の声で送られていく。ショーは兵士に着剣を命じ、ワグナー要塞への突撃が開始された。第54連隊は要塞からの激しい攻撃に遭い、夜陰に乗じて突撃するため砂浜で日が暮れるまで待機する事となる。そして夜間、ついに要塞への本攻撃が開始されるが、攻撃の先頭に立ったショーは銃弾に倒れてしまう。隊長の死を目の当たりにした第54連隊の兵士達は、怒りに身を震わせ死に物狂いで要塞内部へ突入するが、勇戦敵わず、攻撃は失敗に終わる。 第54連隊は隊の半数の兵士を失い、後続の白人部隊も大損害を受け、ワグナー要塞攻略戦は失敗した。しかし、54連隊の武功は連邦議会に伝わり、議会は の設立を制式に認可し、終戦までに18万人の黒人が南北戦争に従軍した。 その後リンカーン大統領は、南北戦争における北軍の戦局を逆転し、その勝利に多大な貢献があったと彼らを讃えた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「グローリー (映画)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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